何をしなくても時間は過ぎるけれど、どう頑張っても太陽は西から東には昇らない。
犬がにゃあと鳴くことがなければ、人間が空を飛ぶこともない。



空飛ぶ秘訣



夕暮れが始まる頃、僕はビルの屋上からそう高くないフェンス越しの街を見下ろした。
行き交う人々は忙しそうに心をすり減らしている。人がゴミのようだ、とか言ってたのは誰だったかなぁ…。
言っておくが、別に学校でいじめられているとか家族仲が悪いとかで自殺しようとここに来たのではない。
一般人代表と言っていいくらいに僕は普通に暮らしている。夢や希望も特になく、ただ平凡に生きている人間だ。
そんな普通のホモサピエンスがビルの最上階でやることと言えば。

現実逃避。

……痛い子、ってのは言っちゃいけない約束。



空はすっかり青色を隠した。僕はまだ小さく見える人の波を眺め続けている。
このままいけば、僕もあの波の一つになるんだろう。世間一般人の行く末なんて皆、そんなものなのだから。
…このフェンスを乗り越えて、コンクリートの屋上を蹴ったら、空が飛べたりしないだろうか。
でも、飛べたとして――何か変わるのか?

『お前空が飛びたいんだろ?』

突如投げかけられた言葉は、聞いたことのない声。

「…誰、ですか?」

思わず放った驚きや戸惑いを乗せた僕の声は、とてもぎこちなかった。
顔だけ振り向くと、そこには男が1人立っている。
―――おかしい。ここには一人で来たし、僕の他に誰もいなかったはずだ。
屋上に上がる階段は一つしかないので人が来ればすぐに気付く。コイツは一体

『オレが空飛ぶ秘訣を教えてやる!』

「あの…どちらさまで」
『いいか、よく聞いとけよ』

声の主は、僕の意見などお構いなしで話し出した。
かなりの不信感は持つけれど仕方ないので一応聞いておくとしよう…彼の言う、空飛ぶ秘訣、とやらを。

『まず真っ直ぐ前を見るんだ。お前みたいに下ばっか見てたって世界は狭いぞ?飛べるモンも飛べない。』

彼は僕の隣に立つと真っ直ぐに腕を伸ばす。それにつられて顔を上げた僕の目に移った太陽は、オレンジに輝いている。

「真っ直ぐ前…」
『そう、あとは背筋を伸ばして風を待つ』

少し冷たくなった風が頬を撫でた。冷たさが髪を浚(さら)って通り過ぎてゆく。隣の見知らぬ彼は楽しそうな声。

『向かい風でも追い風でも、飛べると思ったら手を広げろ!』

そう言いながら彼は両手を横に広げた。その時ふと僕の頭を疑問がよぎった。

「あの…あなたは本当に空が飛べるんですか?」

我ながらバカげた質問だと思う。大体この話を真面目に聞いているあたりから馬鹿げている。
けれど、ここへは現実逃避に来たのだ。現実味を帯びていない話こそ最適であり最高だ。

『飛べるから教えてるんだ』

当たり前だろ、と彼は言いながらフェンスに登り、上に座った。僕は続けて言葉を発する。

「ならさぞかし自由なんでしょうね。」
『自由が必ずしも良いもんだとは言えないぞ。』

前を向いたまま彼は言葉を紡ぐ。

『誰にも縛られない分、誰も構っちゃくれない。止まる木がなけりゃ疲れたって休ませちゃもらえない。それで命を落としたって誰のせいでもなく自分の責任だ。』

彼の顔は逆光でよく見えない。でも届く声は相変わらずの調子だった。

『自由ってのは無くすモノが多いのさ』

オレンジに輝く太陽が空全体を同じ色に染めている。その端が少しだけグラデーションを作り始めていた。
彼は話すのを止め、代わりに口笛を吹いている。
どこかで聞いたことのあるような音の繋がりを聞きながら続きの言葉を探す間、沈黙が流れる。

「で、秘訣の続きは何なんです?」
『おぉそうだったな』

僕がやっと見つけた言葉で、彼の話は再び始まった。

『両手を広げたら、その後はいつも風を探しておくんだ』
「風を見つけたら?」
『手をばたつかせろ!そんで風に乗れ。上手く乗れたら体を預ける。』
「へぇー…」

僕はフェンスの上に座る彼に向けて声を少し大きくする。

「前を見て、背筋を伸ばして、両手を広げて、風を掴めば僕でも空飛べるんですか?」

彼の表情はどう探しても分からない。

『そうだな…あ、大事な事を忘れていた。』
「大事なことなら忘れないでくださいよ。」

僕の言葉が終わった瞬間、彼は突然フェンスの上に立ち上がった。真っ直ぐ前を向き、背筋を伸ばし、両手を広げている。
後ろから風が吹き抜ける。

『地を放すときは躊躇なしだ。思い切り蹴り出せ!一番大事なのは最初の一歩、この瞬間さ!』


最後まで言い終わらないうちに
彼はフェンスを蹴って
支えを失った彼の体は
もちろん重力に従った


「―――っ?!」

慌ててフェンスに登り下を見下ろし彼を探す。しかし見えたのは何一つ変わらず心を擦り減らす人の群だけだった。
何の騒ぎも起きていない。ならさっきの彼はどこに?……消えた…?

『来年の春にはまた来るからな!』

今となっては、聞き覚えのある声。その声のする方を見れば小さな黒い影が飛び回る。
燕が1羽、僕の上を通り過ぎた。また彼の楽しそうな声がした。

『それまでには飛べるようになってろよ!!』


南の国に帰っていく準備なのだろう、彼はやがて大きな群れに吸い込まれていった。もうすぐ秋がやって来る。


来年の春までに、僕は飛べるようになるだろうか?



真っ直ぐ前を向いて
背筋を伸ばして
風を掴んで
一番大事なのは最初の一歩



何をしても時間は止まらないし
どうやったって太陽は東から西にしか昇らない。
犬はワンとしか鳴かないけれど
空飛ぶ秘訣はあるらしい。



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